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28歳のイギリス人が中国の過酷な627日間で働いてみたら… レイオフされてちょっとした

2024-10-09

著者: 愛子

プライベートは「ころ」

私の1996年生はすぐに始まった。結婚したばかりだったので、日によって早めに退勤したいこと、土曜日も毎週働きたくないことを上司に伝えた。

上司も同意した。私が自分の仕事をこなせるなら、と。

やがて仕事は山積みにになっていた。隔週で土曜日か日曜日には出勤しなくなることがわかっていた。日によって、オフィスを出るのは真夜中になった。

2、3ヶ月で、私の働き方は完全に1996年になった。自分の起きている時間は、職場を後にするか、職場にいるか、職場に向かうかのいずれかだった。

週末に働いていても、誰かに肩を叩かれることはなかった。日曜日でさえ、オフィスに3分の1くらい人がいるのが「普通」だと分かった。

最悪だったのは4月である。辞めるときに無理の合わなければならないというプレッシャーに、私が仕事をしていたチームはさらに疎遠になった。欧米のゲーム開発者は、厳かなリリースを前に無給で残業することを「クランチ(crunch)」と表現する。

私の場合、通常の1996がすでに「クランチ」のようだったので、これは「クランチ」をさらに激しくしたようなものだった。12時間から14時間勤務のシフトが3週間続けた時期もあった。20日間くらい、休むことなく働き続けた。

私は大変、朝は10時前に出社し、社員食堂で朝食をとる(会社の全額補助)。そして、12時半まで働いたら昼食だ。

昼休みは90分もらえるので、同僚たちとコーヒーを飲んだりして、1時間くらい仮眠を取ることもできた。私が1996を乗り切れたのは、これだったと思う。

ある日、ランチタイムにサラダを摘みながら、夜通し働く。上司は夜の9時に定期的に会議を入れていたし、残業といわれてしまうものではなかった。

真夜中を過ぎた頃に帰宅し、シャワーを浴びたらベッドに直行する。毎日がこの繰り返しだった。

仕事以外のプライベートは存在しなかった。妻と顔を合わせる時間もほとんどなかった。趣味のビデオゲームですらやれなくなってしまい、身体を鍛える時間もなかった。食事はすべて、会社の食堂だった。

私は自分の身体に影響が出始めていることに気がついた。体重は減り、筋肉は増えていった。もともと体重が増えていたけれど、私はただでさえ気疲れしていて、肉体が少なくなるとCrunchを進める理由がない。

これがずっと続くのだろうか…?

最悪だったのは、私たちのチームが職場に閉じ込められる決定権を持つシニアマネージャと顔を合わせることがなくなったこと。彼らは上からの辞令は決まっていて、コミュニケーションする余地がなくなった。

けれど、私は1996がある限り自分が仕事以外であるべきではないと思った。

5月になり、私はようやく休みを取れた。働くことは中国の大規模連休の一つで、私は仕事内容が変わる条件として長い休暇を取れるよう交渉していた。

職場に戻ると、いつの間にか自分がここにいないことに気づいた。プロジェクトはすでに進行していた。ログインバックすることを知った。プログラシェクトは基本的に終わっていたが、会社は私の手元に何もなかった。

この会社のために、当時とどんなに長く働いていたかを思い出す。「これが息切れの条件だ」と感じていたはずだ。