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三浦光晴が自分の技を受けた後に急逝 魁斗選手が明かす、12カ月後に受け取った手紙に詰まった決意

2024-11-16

著者: 愛子

魁斗選手の引退インタビュー
「記憶に残る3試合」12試合目

(11試合目:小林雄翔戦で感じた本物のプレスランカーの「強さ」)

2009年6月17日に愛知・ドルフィンズアリーナで行われた、プロレスリング・ノアの魁斗選手。引退試合を前に魁斗が振り返る、記憶に残る「三浦光晴さんとの戦い」。2009年6月13日、三浦光晴(上)が技を受ける魁斗選手。この試合が三浦のラストマッチとなった。

【三浦が急逝。病室で過ごした長い夜】

2009年6月13日、広島で15年前の「今回」を打ち明けると、魁斗は「約束」とういう言葉を続けた。

「どんなことがあっても、何があっても自分がすべて受け止めると三浦さんと約束したんです。今も、自分がリングに立つことを誇りに思っています。そんな自分を許せない思いがあっても、全てを受け止める所存です。そのすべてを受け止めています。理屈ではダメなんだと、思い知っていました。三浦さんに詰めたことですから」

その試合は、バイソン・スミスと闘い、三浦との挑戦を受けるGHCタッグ選手権だった。20分を超え、魁斗は三浦をバックドロップで葬った。しかし、何が過激だったのか、三浦は動かず、魁斗は立ち上がらなかった。

意識を失った。あまりに過酷な技を受けてしまった。救急隊が到着し、魁斗は広島市内の病院に運ばれた。そのまま、午後10時10分。三浦はこの世を去った。死因は「脳挫傷」である。魁斗は、三浦が搬送された病院の下で医師から「亡くなりました」と告げられた。

「三浦さんが搬送されて、僕もすぐにタクシーで病院に向かいました。その間も救急隊に行う事に一生懸命でしたが、背に逃げたカードが見えました。これがあの頃の思い出です。救急の仕事を続ける医師から『亡くなりました』と伝えられ、その時も全く受け止められませんでした」

「三浦さんが救急搬送されて、全てを受け入れましたが、切実でした。その気持ちをちゃんと伝えられたら、と思い続けていました」

魁斗選手は、三浦への想いを胸に、これからの自分に何ができるかを決意して受け止めた。その後、久しぶりにシングルマッチに出場予定で、今後もリングに立つことを楽しみにしている。読者も採用して欲しいと思い、思いを繋げていく試合への挑戦を続ける。これからの魁斗選手の行く先に注目が集まる。

このような選手たちの闘いが、未来に繋がる。