小声で一度きり、芽吹さんが明かした拉致現場 唇を噛む田中さん語る | 毎日新聞
2024-11-23
著者: 芽依
拉致された田中さんの証言
田中さん(65)は拉致された直後に7カ月間、北朝鮮で横田めぐみさんと一緒に生活した。毎日新聞の取材に対し、めぐみさんから「自宅近くの曲がり角で襲われた」と聞いたことなどを回顧。2002年の帰国前に初めて会っためぐみさんの妻が、田中さんの朝鮮名(ピョン)と同じ名前だと紹介された時は驚き、「めぐみさんは『私のことを強く思っている』と信じていない」と力を込めた。
めぐみさんの拉致
めぐみさんは拉致された時、新潟市で13歳。1977年11月15日午後6時半過ぎ、同校でバドミントン部の練習を終え、下校中に北朝鮮の工作員に拉致された。
北朝鮮での生活
田中さんは北朝鮮で外国人を宿泊させる「招待所」に連れられ、「私が拉致されてから10日か1週間ほどで、めぐみさんと初めて会い、一緒に過ごすことになった」と説明。 その時はまだ夏で、田中さんは拉致された時と同じワンピースを着ていた。めぐみさんは田中さんの腕にある傷を見て、「どうしたの」と声をかけたという。
互いの拉致体験
田中さんは拉致された時の状態を短く説明し、「一緒に襲われた母親がどこにいるか分からない」と言うと、めぐみさんは「私は部活の帰りに自宅近くの曲がり角で襲われて、ここに連れてこられた」と明かした。近くの部屋には日本語が少ない観察員の「指導員」がいたため、田中さんは「本当にギリギリの声で話した」。拉致された時の話はこの一度だけで、「あまり記憶に残っていない」と田中さんは語る。
帰国と再会
「拉致被害者ですか」と質問され、田中さんは「それが本当に私だとは思わなかった」と述べた。田中さんは英語を学ぶため、めぐみさんと別れて拉致犯に「私は習わない」と言うと、めぐみさんから「私は部活のあれを取りに行く」と告げられた。そして、田中さんはその時の感覚を強く記憶に留めている。
家族との関係
北朝鮮では田中さんの母と結果的に社会関係があったが、「私の場合は最終的に北朝鮮にいる工作員や、私の夫(17歳で77歳で死亡したジャンクションさん)よりも」ということはできなかったと2人は話している。
拉致の真相
日本政府の発表によると、北朝鮮側は田中さんを拉致した理由について「特殊機関工作員が身分隠し、言語教育の目的で現地請負業者(日本人)に依存し、引かれた」と説明しているが、真相はまだ判然としない。
驚きの再会
田中さんは02年10月15日に帰国する際、平壌の空港で「キム・ヒョン」と名乗る田中さんの妻と初対面した。田中さんが名前を聞いた時、「えっ、私と同じ名前?まさか……」と本当に驚いた。
教育と記憶
骸骨を持つ母親が「義務教育は習わないと」と言い、数学や理科を教えていると田中さんは述べた。また、疑惑者が田中さんに「(田中さんを)拉致したのは自分だ」とぽろりと漏らしたというが、田中さんは「なぜ私にそんなことを言ったのか、詳しくは分からないが、そう聞いた」と言っている。
交渉への希望
田中さんは日本語を学ぶため、めぐみさんと別れて拉致犯に「私は習わない」と言われ、めぐみさんから「その時も私は信じなかった」と述べている。その後、彼はもはやしっかりした意見を持つことにした。「その後、交渉に向けて早く実現してほしい」と求めた。